多趣味な社会人のブログ

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何となくの多数派(サイレント・マジョリティ)で本当にいいの?

 日本では、小学校の頃から集団で行動することが求められます。物心がつくかつかないかの年齢の頃から、人と同じように行動することを求めては、個性を表現するとは難しくなるでしょう。個性を押し殺して周りに合わせることが本当に正しいことなのでしょうか?もしかしたら周りが間違っているかもしれません。自分の頭で考え、自分なりの正解を求める教育を進めていくべきだと思う。

 一人ひとりがばらばらな方向に向かわれると手におえないので、同じ目標を設定して同じ方向を向かわせたいのだろう。受験戦争はその最たるものだといえる。高校受験では、国・数・英・理・社の五科目を覚えることが求められる。これらをより多く覚え、より高い点数を取った人が優秀だというのは、いささかおかしな話だ。さらに、大学入試ではこの中から得意な科目を選び、文系か理系かを選択する。この世界には、筆記試験的なものに満ちあふれているのだろうか。限られた時間内で、教科書や参考書を見ることもできず、他人と相談もできない。こんな場面、現実の社会ではほとんどないシチュエーションだと言える。たとえば、何かしらのプロジェクトを進めるとき、時間の制約は存在するかもしれないが、グループで話し合って協力し、関連する情報を本やインターネットで探して仕事を進めるのが一般的である。それならば、一人で暗記に頼って問題を解く能力より、何人かで協力して答えを探させる能力を鍛えるべきではないのか。ここまで書くと、先ほどの集団行動に対する批判と矛盾していると思われるかもしれない。しかし、日本の学校で行われている集団教育は、数人で協力して答えを探させるものではない。答えが決まっている問題に対して、教員がクラス全体を誘導していくものに過ぎないのだ。世の中には答えのない問題の方が圧倒的に多い。少子化高齢化、相対的貧困の増加、労働環境の問題など、決まった答えがあればとっくに解決されているはずだ。「ザ・ベスト」な解決策がない以上、「マッチ・ベター」な解決策を提案していくしかない。これまでに出された答えをより良いものに変えていく、これを実行するためには生徒一人ひとりに判断基準を持たせ、自分なりの解答を作成させる能力が必要となるだろう。今の教育に不足しているのは、物事を分析する能力を身に着けることだと思う。

 私の高校時代、進路指導の方針は「少しでも偏差値の高い高校に入るべき」という考えしかなかったように思える。たしかに、偏差値というものを物差しに大学を選ぶ生徒がいてもいいと思う。しかし、学校全体が偏差値という考え方を生徒に押し付けるのはいかがなものかと思う。私はFランクの大学に進んだが、偏差値だけでいえばもっと高い大学にも進めたかもしれない。しかし、「奨学金が給付される」「少人数教育が充実している」「家から近い」という自分なりの判断基準からすれば最高の選択であったと、自信をもって言うことができる。大学に入るまでテストの点数だけで評価されていく教育のあり方に、今一度疑問を呈したい。有名な大学でも授業をさぼったり、授業中寝ている学生が出てくるのは、自分の将来を偏差値でしか考えず、明確なビジョンを持てていないからだと思う。

 このブログを読んでくださる皆さまには、ぜひ自分の判断基準を持って行動してほしいと思います。その際、世間から見て少数派だったとしてもまったく問題ありません。むしろ、何となく多数派の意見に賛同して周りに流されるのは危険だと思います。