多趣味な社会人のブログ

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終われない青春 後編


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 夕陽が今にも沈みかけようとしている神宮球場。外野席の観客はまばらだった。シーズン終盤、優勝争いから脱落したチーム同士のナイターとなれば、球場内は閑散としていて当然である。タクトとサユリは、ガラガラの外野自由席に座って、気の抜けた消化試合を観戦していた。
 先週、サユリから「野球の試合に連れて行ってください」というメッセージが送られてきたので、すでに消化試合となってしまったチケットを手に入れて神宮球場にやってきたのだ。
 
 クイズ大会の帰り際、「今度は古葉さんの方から誘って」とタクトに言われたことがきっかけで、サユリは頭を悩ませることとなってしまった。遊園地に誘おうか。しかし、乗り物が苦手だという先輩はアトラクションを楽しめないだろう。動物も苦手なので、動物園や水族館も不可。人気バンドのコンサートに誘おうとも考えたが、流行りの音楽の話に興味を示さなかったことを思い出す。プロ野球が好きだと言っていたのを思い出し、野球観戦に連れていってくださいとお願いした。神宮のチケットを取ったと連絡が入ると、あわてて野球のルールや有名選手のことをインターネットで調べまくった。

 2回の裏、ヤクルトの助っ人外国人が打席に入る。
「古葉さんは、どこか応援しているチームとかないの?」
「お父さんは巨人ファンなんですけど、私はあまり野球の試合を見たことがないんですよ。それで、野球に詳しい長谷川先輩と一緒に野球観戦して、いろいろ教えてもらおうと思ったんです」
「そうなんだ。基本的なルールとかは分かるの?」
「はい。ホームまで進めば1点とか、アウト3つでチェンジとかくらいは分かります」
 マウンドでは、若手のピッチャーがキャッチャーミットめがけて白球を投げる。
 ”カコーン”
大きな音が外野席にまで響く。2人が座っている席のななめ後方にボールが落下する。特大のホームラン。ヤクルトの貴重な先制点となった。
「すごい!この選手、よくホームランを打つんですよね?」
「まあ、今シーズンのホームラン王は確実だけど、まさか今日見られるとは思わなかった」
 突然の特大ホームランを目の当たりにして、タクトの気分は上ずっていた。
 試合は、ヤクルトが着実に得点を重ね、終わってみれば5点差の圧勝だった。
「今日の試合どうだった?」
 タクトは、帰る準備をしながらサユリに話しかける。
「大きなホームランが見れて楽しかったです。それと、長谷川先輩の解説も面白かったです。先輩は野球についても詳しいんですね」
「まあ、小学生の頃は少年野球のチームに入っていたからね」
「えっ、そうなんですか。長谷川先輩がスポーツをやっていたなんて意外です」
 タクトの意外な過去を知ったような気がした。
 今言ってしまおう。サユリは覚悟を決めた。


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「あの……友人の次のステージにまで進んでくれませんか!」
 言ってしまうと、少し肩の荷が下りた気がした。
「友人の次のステージって何?」
 とぼけている様子ではない。それが長谷川先輩という人物なのだ。
「えっと……恋人になってください、という意味です」
 サユリの顔がほんのり赤く染まる。タクトは少し考えた様子で答える。
「ごめん。無理だよそれは……」
 タクトは悲しそうな顔を浮かべる。
「私には至らないところばかりですが、もっと先輩に楽しんでもらえるように努力します。なので、どうか……」
 そうじゃなくて……タクトはサユリの言葉を遮って話し始める。
「古葉さんは素晴らしい人だと思うよ。気遣いはできるし、話していて楽しいよ」
 いったん言葉を切り、ペットボトルのお茶に口をつける。
 正直に話さなければいけない、と覚悟を決めた。
「実は僕、ギャンブル依存症なんだよ。いまや暇があると競馬や競輪のことばかり考えてしまう。ギャンブルをしていないと落ち着かなくて、毎月給料の大半をギャンブルに使ってしまうんだ。だから、古葉さんには釣り合わないよ。古葉さんなら、もっといい人を見つけられるはずだと思う」
 タクトの眼には悲しそうな光が浮かんでいた。古葉さんは素晴らしい人だ。できれば友人であり続けたい。しかし、恋人となると話は変わってくる。すさんだ生活に古葉さんを巻き込むわけにはいかなかった。
「ごめん。本当にごめん……」
 言い終わるのと同時に、小走りでその場を立ち去った。古葉さんの表情を見たくなかったし、何も言ってほしくなかった。
 パチンコ屋の騒音をもってしても、タクトの気持ちが洗い流されるくれることはなかった。過剰すぎるリーチの演出も、今日に限っては虚しいだけだった。大当たりを出したため、店外の換金所に立ち寄る。2時間足らずの間に4万円を稼いだというのに、気持ちは沈んだままだった。
 終電で家に帰ってきたため、夜中の1時を回っていたが、なかなか寝付けない。頭の中は神宮球場のあのシーンで止まっていた。あの場面での正解は何だったのだろうか?いや、すでに人生の歯車が狂っていたのだから、正解なんてあるはずがなかった。布団に入って眠りに落ちたときには、すでに太陽が昇り始めていた。


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 サユリは呆然としていた。突然の事態に直面し、どう行動すべきか分からなかった。駅はすぐ近くだし、最寄り駅までの電車の乗り継ぎも問題ない。しかし、先輩が戻ってくるかもしれないため、このまま待ってみることにした。
 「恋人になりたい」という言葉が先輩を追い詰めてしまったのだろうか。少し焦りすぎたのかもしれない。このまま2人の関係を終わらせてしまいたくはないが、今連絡するのは逆効果だと思い、LINEのメッセージを送ることはしなかった。いや、できなかったといった方が正確かもしれない。
 30分くらい経ってもタクトが戻ってくることはなかった。十数名ほど残っていたヤクルトの応援団も引き上げたので、自分も帰宅することにした。最寄り駅までに2回ほど乗り換えたはずだが、どうやってここまでたどり着いたか覚えていない。家までの道すがら、タクトが去っていった場面が頭の中を繰り返し流れていた。そもそも、悩みなんてなさそうなタクトが自分の人生を悲観的に捉えていたとは、思いもよらなかった。
 もっと時間をかけて慎重にアプローチすべきだったのかもしれない。そんな後悔がサユリを襲う。悲しい気持ちを、溜まった疲れと一緒に洗い流そうと思って、お風呂に入ることにした。湯船につかっていると、今までの楽しかった思い出と数時間前のフラれてしまった記憶が同時に押し寄せてくる。何度も顔を湯船にうずめてみるが、とめどなくあふれ出す涙を抑えることはできなかった。
 あれから数日間は、大学の授業も上の空だった。同じ学部の友人には「そういえば、最近長谷川先輩の話しなくなったね」と指摘された。これまでは、タクトのことを友人たちにも話していた。しかし、今タクトのことを話せるはずがない。
「まあ、いろいろあってね」
 沈んだ口調で答える。
「あっ、ごめん。触れちゃいけなかったかな」
 友人はサユリの様子に気づいたようであわてて取り繕う。
「サユリはさ、何でも自分の責任だと思いすぎなんじゃないかな。迷ったら私に話してみてよ。相談に乗ってあげるからさ」
 気遣いはありがたかったが、この状況を他人に相談する気にはなれなかった。


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 ”神宮球場事件”から一週間たったある日、サユリはLINEのメッセージを見て驚いた。タクトからの通知だった。
 サユリはあの日以来、タクトにメッセージを送ることができなかった。この状況を好転させる自信がなかったからだ。

(先日は、本当にごめんなさい。あの日は無事に家に帰れましたか?帰れていれば幸いです。もし僕のことを許してくれるのなら、明後日の午後2時に、横浜の赤レンガ倉庫に来てください。許すつもりがなければ、僕のアカウントを削除してください)

 ”横浜の赤レンガ倉庫”という地名に、一瞬心が躍った。長谷川先輩には似合わなそうな場所だと思ったが、とりあえず閉塞的な局面が打開されたことだけは確かだった。サユリは急いで返信文を考える。もちろん、「許す」の選択肢は決まっている。問題は、明後日の成り行き次第で2人の関係性が大きく決定づけられてしまうことだ。プラスにもマイナスにも転ぶ可能性がある。こうなった以上、これまで築いてきたギリギリの均衡を崩していくしかないのだ。

(許すとか、そんな深刻なことだと考えないでください。私の方こそ、あの時は不躾なことを言ってしまい申し訳ありませんでした。もちろん、横浜の赤レンガ倉庫に行きます。明後日先輩と会えるのを楽しみにしています)

 よかった……古葉さんは許してくれたんだ。タクトは、送信から2時間後に帰ってきたメッセージを読んで安堵する。あんなことをしてしまったのだから、返信がなくても仕方ない。そう考えていたので、返信があったことが嬉しかった。
 タクトは、いわゆる”デート”にふさわしい場所を必死で探した。一般的なアベックは、遊園地や水族館に行くらしい。インターネットの検索エンジンで「デートにおすすめの場所」と調べただけで、未知の情報がたくさん表示される。パソコンの液晶に表示された検索結果は、タクトにとって新鮮な情報の洪水だった。古葉さんも本当はこういう場所に行きたかったのかな……そんな考えが脳裏をよぎる。
 タクトは、ある決意を固めていた。 


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「この前はごめんなさい」
 タクトは、待ち合わせ場所にやってきたサユリにむかって、深々と頭を下げる。
「そんなに気にしないでください。別に怒ってないですから」
 サユリは笑顔を浮かべて、怒っていないことをアピールする。
「ありがとう。ところで、古葉さんはお昼ご飯食べました?」
「まだ食べてないです」
 14時待ち合わせだったので、何か食べてこようかと思ったが、先輩とランチする展開も期待して食べないでおいた。
「じゃあさ、どこかでご飯食べましょうよ。実は、僕もお昼ご飯を食べていないんです」
 2人は、イタリアン料理のお店で遅めの昼食をとることにした。
 店内のオシャレな内装が、2人の間に流れる緊張感を増長させる。
ボンゴレビアンコを2つ」
 タクトには、ボンゴレビアンコが何なのか見当もつかない。ただ、好き嫌いは少ないので、食べられないということはないだろう。そう思って、古葉さんと同じものを注文した。
「先輩、ボンゴレビアンコ知っているんですか?」
 ハイカラな料理に詳しくなさそうな先輩が何も訊かずに注文したので、クイズにでも出てくるのかと思った。
「いや、実は知らないんだ。古葉さんが注文したから、不味いものではないだろうと思って……」
 サユリの顔に笑みが浮かぶ。やっぱりだ。先輩は、何でもないことで見栄を張るきらいがある。サユリは、心の中でタクトの性格を分析する。
 10分後、ウェイトレスがワゴンに載せた料理を運んでくる。平べったい皿の上には、貝がのったパスタが盛られていた。これがボンゴレビアンコか。美味しそうではないけど食べられないほどではないだろう、というのがタクトの正直な感想だった。
 謎のパスタを口に入れてみる。薄くて何の味なのか分からない。しかも、貝殻が邪魔をして食べづらい。やっぱりこういう店は向いてないな、とタクトは感じていた。美味しそうにボンゴレビアンコを食べている古葉さんを見て、この店に馴染んでいるなと思った。
「ここは僕が払うよ」
 財布を取り出そうとしたサユリを止めるように、タクトが言う。
「いや、大丈夫ですよ」
「前回のお詫びってことで、おごらせて」
 タクトは伝票をレジに持っていき、なかば強引に2人分支払った。
 店を出ると、ショッピングエリアを歩きまわった。サユリは雑貨やお土産物を楽しそうに見ていたが、タクトは心ここにあらずという様子だった。タクトは、腕時計を見て16時になったのを確認すると、大桟橋に行こうとサユリを誘った。


               終


 16時55分。2人が大桟橋に着くと、港に停泊していた大型船がちょうど出港するところだった。
「船、こんなに大きいんですね。近くで見ると迫力を感じます」
 サユリは間近で出港した船を見てはしゃいでいるようだったが、タクトは上の空という様子で生返事をする。
「先輩、どうしたんですか?」
 サユリは、もしかしたら自分が嫌われてるのではないかと心配になって尋ねる。
「あっ、ごめん」
 我に返った様子で、サユリのほうに向き直る。聞いてほしいことがあるんだ……タクトは、真剣な表情になってつづける。
 「俺のこと、助けてください」
 すがるような眼差しでサユリを見つめる。今のタクトにとって、唯一の頼れる存在がサユリだった。
「もちろんです!先輩のことを精一杯サポートします。」
 サユリは、タクトに頼られたことが嬉しかった。自分のすべてをタクトに捧げたい。そう思えるほど、目の前にいる先輩はサユリにとって魅力的なのだ。
 一般的な愛の告白とは程遠い。現在のタクトは、普通の恋愛をするためのスタート地点にすら立てていないのかもしれない。しかし、底が見えないほどの深い愛情と信頼感が、2人の間を満たしているのは明らかである。
「いつも僕を支えてくれてありがとう。これからも、古葉さんを幸せにしていきたい」
 一度言葉を切る。そして、覚悟を決めて次の言葉を紡ぎだす。
「いや、絶対に幸せにします」
 一世一代の宣言をしたタクトが決意のこもった眼でサユリの顔を見つめると、サユリの顔がさらに赤く染まっていく。その表情をみたタクトの顔も、夕陽に負けないくらい真っ赤に染まる。この5分足らずの間に、緊張、不安、そして喜びの感情を一気に味わうこととなり、タクトの心臓は忙しく動き続けている。一方のサユリも、言葉にできないほどの幸福感に満たされている。 

「お願いが2つあるんだけど、聞いてもらえるかな?」
「お願いって何ですか?」
 一瞬の間が開いた後、タクトが口を開く。
「1つ目は、俺の通帳を預かってほしい。俺、金を無駄遣いする癖があるだろ。だから、毎月必要な金額だけ渡してほしいんだ。そうすれば、ギャンブルとかでお金を使いすぎることはなくなると思う」
「えっ!通帳を預かっちゃって大丈夫ですか?」
 サユリは、どんな頼みでも聞き入れるつもりだったが、予想を超える突拍子もないお願いにただただ驚くしかなかった。
「大丈夫。そうしないと、いずれ破産しちゃうし、古葉さんなら信頼できるから大丈夫だよ」
 人生で5本の指に入るほどの驚きがい一段落すると、通帳を預けてもらえるほど信頼されていることへの感動がこみあげてきた。
 タクトは、2つ目のお願いがあると言い、さらに言葉をつづけた。
「ギャンブル以外の楽しいことをたくさん教えてくれますか」
「もちろんです!二人でいろんな場所に行って、たくさん楽しいことしましょう!」 
 即答したサユリの声は弾んでいた。
「私からもひとつお願いがあります」
 サユリは、思いついたように口を開く。
「敬語はやめましょう。私に対しては、ため口で接してください」
「どうしてですか?」
 タクトは不思議そうに尋ねる。年齢にかかわらず、尊敬できる人に対しては敬語を使うことがタクトのポリシーなので、年下であるサユリに対しても敬語を使ってきた。
「恋人同士というのは、普通ため口で話すものなんです。なので私たちも気軽な感じでしゃべりましょう!」
「分かりました」
「先輩、それもため口になってる」
 2人は、くすくすと笑い合った。 
 日の入り寸前の真っ赤な夕陽が、2人のこれからを祝福するように照らしていた。

 

脚注
篆書:周時代末期に使用された書体。同じ太さの線で描かれるのが特徴
ワンピース:上衣とスカートがつながった女性用の衣類
ポニーテール:髪を後頭部で一つにまとめて垂らした髪型。主に髪の長い人に見られる
キャミソールノースリーブ:どちらも女性向けの衣類。袖がないため、夏に着るもの                                                   と思われる

スプリンターズステークス:毎年秋の初めに中山競馬場で開催される、1200mの短距

             離G1レース

表千家裏千家:実際には表千家裏千家以外に武者小路千家という流派があり、

       三千家と呼ばれる。千家の千は「千利休」の千である。